メジロの事

朝、リンと散歩に行く前に、池の近くに脚立を出して板を乗せただけの簡単な台を作った。
その上に、適当な大きさに切った林檎を乗せる。
昨日の鳥がまた来てくれたら、後でちゃんとした台を作ろうと思う。


蝉が朝から忙しなく鳴いている。
公園の脇を通って、豆腐屋に寄ると、店の親父さんは店の前に立って空を見上げていた。
おはようございますと挨拶をしたら、親父さんは嬉しそうにリンに向かって挨拶を返し、一旦店に入るとすぐに戻って来て、リンに豆腐を半丁わけてくれた。
僕は自分の朝食と夕食の分に豆腐を二丁買った。
鼻の頭を満足そうに舐めているリンと家に戻って来ると、庭先から微かな鳥の声が聞こえた。
チィーという、小さな声だ。
息を殺してこっそり覗いてみると、萌黄色の小さな鳥が一羽、即席の台の上で注意深く周囲を警戒しながら林檎をつついていた。
よく見ると目の周囲にぐるりと白い縁取りがある。
どうやらヨネヤの言った通り、メジロのようだった。

しばらくすると、リンが庭に駆け込んで行ってしまったので、メジロは瞬時に飛び上がり、庭木の中に姿を隠してしまった。
リンは気にするふうでもなく、池の水をおいしそうに飲んでいる。
僕らの姿が見えなくなったら、またメジロも戻って来るだろう。
明日は、オレンジでも出しておいてやろうと思った。


早速、会社でヨネヤにメジロのことを報告すると、なんだか得意げに、やっぱりなと返された。
子供の頃、ヨネヤの父親が野鳥用の餌場を庭先に作っていたそうで、スズメやメジロヒヨドリなどは毎日のように見かけたのだという。
鳥というのは意外と周囲の変化に目聡いようで、特に食べ物に関する情報収集能力はなかなかのもののようだ。
なるべく、木陰になるところに餌場を作った方が良いとか、あまり台を大きくしすぎない方が良いとか言うので、そんなに詳しいのなら手伝いにきてくれと言ってみたら、二つ返事で承諾を得た。

明日は、餌台を作るのと、蔵の中身の虫干しをすることにした。

鳥の声と林檎の事

朝の散歩から戻り、いつものようにリンと庭へ回って、リンが池の水を飲んでいるのを眺めていたら、庭木の上の方から綺麗な鳥の囀りが聞こえてきた。
澄んだ高音で、複雑な旋律を器用に囀っている。姿は見えない。
リンが鼻先を空に向けて、耳を澄ますように首を傾げる。
しばらくして、音の出所が分かったのか、桜の木をじっと見上げる。くんくん鼻を動かしているのは、匂いを嗅ぎ分けようとしているのだろうか。
僕も桜の木を注意深く探してみたものの、すっかり勢いのある葉桜で、啼き声の主を見つけることは出来なかった。
ふと座敷を見ると、いつの間に来たのか、サカエダさんもにこにこしながら桜の木を眺めている。
いつもこの庭に立ち寄ってくれたらいいのにねと、リンに言ってみた。
リンは僕に向かって、くう、と小さな溜め息のような音をたてて、また池の水を飲んでいた。
賛成だったのか反対だったのか、どちらだろうと考えたくなるような反応だ。


会社でヨネヤに、綺麗な声で啼く鳥がいたと話すと、メジロかなんかかもなと言われた。
野生なのか、どこかの家で飼われていたのが逃げたのかも知れないな、とも言っていた。
庭先に果物でもあればまた来るかも知れないので、明日の朝に林檎でも置いておこうと思う。
会社帰りに、おいしそうな林檎を見つけたので、自分の食べる分と鳥の分を買う。
夕飯の後で林檎をくるくる剥いていたら、五十センチほどまで剥いた皮を、リンがちぎって持って行ってしまった。面白かったのだろう。
しばらく咥えて家中を走り回っていたのだが、いつの間にかどこかに放してきたらしい。
後で家の中を探し回ってみたが、とうとう見つからなかった。もしかしたら食べてしまったのだろうか。

散歩中の事

早朝、リンと散歩をしていると、通り掛かった家の庭先から声が聞こえた。
声の主は男のようで、しまい忘れるとはまったくいまいましい愚か者だとか、このろくでなしだとか、どうやら不満を述べているらしい。
声が聞こえた庭先は、木に阻まれてちらとも見えない。
なんだろうかと思いながら通り過ぎようとした時、ガタンと何かが落ちる音がした。
すると、リンは音に驚いたのか、物音がした方に向かっていつになく鋭く、二度吠えた。
早朝だったので、近所迷惑になるかと慌てたのだが、猫が一匹木の間から飛び出して来たのと、緑色の鳥が一羽飛び去って行った以外は何も起こらなかった。


リンは僕の顔を見上げて、なんだか申し訳なさそうな表情をしているように見えた。
驚いたねと小さく声をかけると、すんと鼻を鳴らす。
庭先で不満を述べていた声も沈黙しているので、そのまま散歩を続けた。

本の話

今朝も電車でうたた寝をしていると、降りる駅に着く少し前に、ねえ!という声に起こされた。
この声にもほとんど慣れてしまった。寝過ごす心配はいらないようだ。


昼休みに会社の食堂で食事をする時は、大抵ヨネヤと二人のことが多い。
そこに、昼休み前に会話をした誰かが加わることもしばしばある。
雷雨のあった朝、会社の玄関で知り合ったカネダさんは、課が違うものの読書の趣味に重なる部分が多いので、知り合ってからはわりと頻繁に本の貸し借りをしている。
仕事中に接触する機会はほとんど皆無なので、昼休みと仕事が終わった後のささやかな酒宴の時間での付き合いだ。


今日の昼休みもヨネヤと二人で食堂のテーブルに着いていたら、にやりと謎の笑顔でやって来た。
カレーライスの乗った盆を持って、ヨネヤの隣りの席に着くと、僕の貸した本がとても面白かったのだと言う。
カネダさんはミステリとSFが大好きらしく、貸してくれる本はそのあたりのものばかりだ。
僕も少なからず読んではいるが、カネダさんほどではない。
昼休みは本の話で終わってしまった。
ヨネヤはあまり本を読まないが、最近は奥さんのチカコさんの持っている本を少し読むようになったそうだ。
僕とカネダさんが楽しそうに盛り上がっているので、気が向いたということらしい。
それはいい、とカネダさんが嬉しそうな顔をしていたので、ヨネヤはそのうち、ミステリとSF漬けにされてしまうかも知れない。

電車での事

朝、出勤の電車で、小学生の一団と乗り合わせた。
座席は埋まっていたので、ドアの脇に立って壁に寄り掛かって車内の吊り広告を眺め、それから車内全体をなんとなく眺める。
小学生は男の子四人、女の子五人の集団だった。
はじめは、男女に分かれて七人掛けの座席に、向かい合わせで離れて座っていたので気がつかなかったが、時間を確認しあっているのでそうと分かった。
夏休みに出た宿題のためか、それとも遊びに行くのかも知れない。
男の子の方は、携帯ゲーム機をいじりながら、攻略の話題で控え目に盛り上がっている。
女の子の方は、二人ずつ内緒話でもするように、小さな声で会話しているようだった。時々話し相手が入れ変わったりする。


そのうちの一人、女の子のグループの右端に座っている、白いワンピースを着た女の子と目が合った。
女の子は、屈託なくにっこり笑うと、すぐに視線をグループの方に戻して、友達の話に耳を傾けているようだった。


会社の最寄り駅で電車を降りると、後から電車を降りて来た彼らが、元気に走って僕を抜かして行く。
一人、二人三人、四人、五人六人、七人八人、
おや?と思って振り返る。女の子は五人いなかっただろうか。
後ろに子供の姿はなかった。
電車はホームを滑り出すところだった。
前に向き直ると、階段をはしゃぎ声が下って行く。
たぶん、僕が数え間違えたのだろう。

烏瓜の花の事

深夜から、降るような蝉の音が、開け放った窓の網戸の向こうから聞こえてくる。
まるでぴったりと蓋でもしたように、風は少しも吹かない。
居間の風鈴が鳴れば、少しはましだろうと思うのだが、団扇であおいでみてもわざとらしいばかりだった。
サカエダさんだけは涼しげな顔で、なんだか少し羨ましい。
うだるような暑さとは正にこの事で、僕もリンも、早くに起き出して散歩に出かけた。
あまりに早くて、外はまだ薄暗い。
川沿いなら少しは涼しいかと思い、そちらに向かってみると、土手の木に絡んでいる烏瓜の花が群れて咲いている。
暗がりで見ると、はっとするような姿の花だ。
じっと見ていると涼しいような気持ちになる。
しばらく見ていたら、蚊の羽音が聞こえたので、あわてて退散した。
秋になったら、真っ赤な烏瓜の実をひとつ失敬して、庭に植えてみようかと思う。


夕方、祖母が電話をかけて来た。
イズミヤさんの家にお邪魔するのは、今月の十二日あたりでどうかと言うので、大丈夫だと答える。
ちょうど、お盆休みの始まる日だ。
十二日より前には、祖父母もこちらに来るつもりだというので、来る前に連絡をしてくれれば、いつでもいいと言っておいた。
リンが僕の隣に座って、聞き覚えのある祖母の声を、耳をそばだてて聞いていた。

池の存在感の事

リンは散歩から戻ると、庭に走って行って池の水を飲むのが習慣になった。
いつでも綺麗な水が好きなだけ飲めるのは、幸せな事だと思う。
リンに、良かったなと言うと、満足そうに鼻の頭を舐めながら振り返った。


池には毎朝必ず数羽の雀が水浴びに来ている。
騒々しいほど集まっては来ないが、どうやら入れ替わり立ち替わり、別の雀が立ち寄っているように思う。
縁側でじっとしていると、人間が眺めていても水浴びをしていく。
ちょっとでも動くと、一斉に飛び上がる。
池を作ってから、庭を眺めることが多くなった気がする。