くしゃみの事

夕方近く、タカハシさんから連絡があって、飲みに行きませんかと誘われた。
秋の気配も微かに漂い始めたので、行く夏を惜しみつつ、ビアガーデンに行こうということになった。
僕が好きそうな、いい所があると案内してもらったのは、信濃町駅を降りてすぐの、森に囲まれた場所にあるビアガーデンだ。
木立は影になり、夜の空を背景にしてさながら絵のように見える。時折吹く風に、さらさらと葉擦れの音がする。それでいて、人の楽しげな熱気が満ちていた。確かに僕の好きな雰囲気だ。
毎夏、森のビアガーデンとして開店しているそうなのだが、近場でばかり飲んでいるので知らなかった。


早速ジョッキを一杯ずつ注文し、乾杯する。
タカハシさんは一息に杯を空ける。
それをなんとなく眺めていたら、空のジョッキを置いたタカハシさんが、不思議そうな顔で小さく首を傾げる。
相変わらずの飲みっぷりですねと言うと、にこにこと笑い返された。
本当においしそうに飲むので、一緒に飲んでいると酒がおいしくなる。
僕もジョッキを半分ほど空けて、そういえば先日会った時にはヨネヤが一緒に居たのを思い出し、彼の話をする。他愛のない話だったが、タカハシさんは、いちいち頷いたり感心したり笑ったりしながら聞いている。


僕は、昔埋められてしまった庭の池を掘り返してみたことや、仰向いて寝る飼い犬のリンのこと、風鈴を土産に買ってきてくれたのに、次に来た時にはそのことをすっかり忘れていたキスミの話、それからモチヅキの作った洋菓子についてなど、とりとめもなく話した。
タカハシさんは時折相槌を打ちながら黙って聞いていたのだが、僕が一息ついた時にふと、いつもと逆ですね。と言った。
そういえば普段は主にタカハシさんが話し、僕はちょうど今日のタカハシさんのように相槌を打ちながら興味深く耳を傾ける、というのが常だった。


話を聞いている間にタカハシさんはジョッキを四杯空にしていた。
僕はといえば、話すのに夢中で、ようやく一杯目がなくなるかという程度だった。すっかり温くなっている。
僕がもう一杯を注文すると、タカハシさんも一緒に注文する。
最近読んだ本に話題が移り、二人で運ばれてきたジョッキを飲み干したあたりで、ふいに風が変わった。
湿った冷たい風に雲行きが怪しくなってくる。
タカハシさんが見上げた空から視線を戻し、そろそろ帰りますかと言った直後にくしゃみをした。


その瞬間、タカハシさんの鼻から何かが飛び出して、空になった枝豆の皿の上に落ちるのが見えた。
とくに深い意味もなく目で追うと、今目の前にいるタカハシさんとまったく同じ格好の、頭の上から足の先までそっくり同じな、それはとても小さいタカハシさんだった。
非常に小さいタカハシさんは、僕と目が合うと、人差し指を一本立てて唇に当て、ぴょんと皿から跳ね、テーブルの下に見えなくなった。ほんの一瞬のことだ。
今日のタカハシさんが無口だったのはあれのせいだったのだろうかとぼんやり思う。
酒には強い方だと思うのだが、もしかして酔っているのだろうか。


タカハシさんは何事もなかったように、鼻の下をこすると、ぼんやりしている僕に、雨が降らないうちに帰りましょうと言って、さっと伝票を掴んで立ち上がってしまう。
僕がもたもたしているうちに、タカハシさんは会計をすませてしまった。
買ったばかりの本を持っているので、雨は極力避けたいのだろう。
早足で駅に戻り、ちょうどホームに停車した電車に乗り込んだ。
飲み代の半額を払おうとすると、つけいる隙もないほど丁重に断られてしまう。なんとも困ったことだ。
次は僕が払うと心に決め、タカハシさんにもそう告げると、ちょうど乗り換えの駅だった。


家に帰り着いた頃合いを見計らっていたように雨が降り始める。
タカハシさんは濡れずに帰れただろうかと思う。
玄関に走ってきたリンが小さく吠える。
リンが吠えるのは珍しいので、どうしたのかと声を掛けてみる。どうやら鞄が気になるらしい。
何か変わったものでも入っていたかと開けてみると、文庫本の陰から小さなタカハシさんが出てきた。
小さなタカハシさんは人差し指を立てて唇に当てると、真面目な面持ちのまま鞄から飛び出し、そのまま見えなくなった。
リンも一緒に見ていたはずだったが、それきり平気そうな顔になってのんびりと尻尾を揺らしていた。