電車の声にまつわる事

今朝電車の中で、隣に座った女性から、すみません。と声を掛けられた。
黒いまっすぐな髪を肩胛骨のあたりまで伸ばした、色の白い女性でちょっとびっくりするくらい綺麗な顔立ちをしている。見たところ二十代半ばくらいだろうか。
きちんとスーツを着ているので、おそらくはOLか何かなのだろう。
何故だか、本当は不本意なのだけど。という気持ちが透けて見える。
急にこんなことを言って驚かれるかも知れませんが。と、その女性は言う。
女性の声は小さく抑えられていて、ほとんど僕にしか聞こえないのではないかと思うほどだったのだが、不思議と発音は明瞭でしっかりと聞き取る事ができた。
周囲に気を遣う意識と、きちんとした身なりから、それほど不振な人物には見えない。
僕が黙って頷くと、ほっとしたように女性は少し微笑んで話を続けた。


最近、うたた寝をしていると自分の降りる駅で起こされることがありませんか。と、その人は言う。
もしかしてあの、ねえ!という大きな声の事を言っているのだろうか。
僕が何か答える前に、女性はさらに言った。
実は、数日前まで自分もその声に起こしてもらっていたのだけれど、ある時、わあ。というどこか嬉しそうな感嘆の声を聞いて以来、声は聞こえなくなってしまったのだという。
それとなく周囲を見ていると、僕が弾かれたように目を覚まして、不思議そうに周囲を見回しているのに気がついて、もしかして『移動』したのかも知れないと、こうして話しかけてみたのだそうだ。
一度見ただけでは確信が持てなかったので、二度目もあるか確かめたのだという。
普通に聞いていると、どうにも突飛な話だが、確かに二度、大きな声で起こされている。
僕が、なんと答えようか考えていると、女性は、こんな変な話本当はするつもりじゃなかったんですよ。と言って苦笑を浮かべる。
でも、あの子があなたを見つけてあんなに嬉しそうな声を出したのを聞いたら、今度はどんな人を気に入ったのかと思って。
女性は声の主を、あの子と呼ぶ。
あの子、と繰り返すと、女性は神妙な面持ちで、女の子なんですよ。と答えた。
もう、三年も起こしてもらっていたのだそうだ。
それじゃあ、本当に突然すみませんでした。気持ち悪かったら忘れて下さいね。
そう言い残して、女性は僕が降りる三つ手前の駅で降りて行ってしまった。