妹の話

朝、散歩から戻って朝食を作る。
居間で朝食を食べながら、サカエダさんとリンに、今日妹が来るのだと言ってみたが、リンは僕の声に耳を一度振り、後は食事に専念している。
サカエダさんは、二度ほど頷いてにっこりと笑っただけだった。


予告通り、九時になる一分ほど前に妹が到着した。
リンにお土産だといって、骨の形をした犬用のガムを持ってきてくれた。
居間に入ると、先ほどまでは座って風鈴を眺めていたサカエダさんが、窓際に立っている。
妹が挨拶をすると、サカエダさんも丁寧に頭を下げて、それから顔を上げると、にこにこと笑っている。かと思えば、再び座り込んで、軒先の風鈴を見上げる。
素敵な風鈴、良い出来映えですねと妹が言うと、サカエダさんは嬉しそうに頷いていた。


座敷に入りたいというので、別にいちいち許可を取らなくても、好きなようにくつろいでいけばいいと答えると、嬉しそうに早速座敷に向かう。冷えた麦茶を持って座敷を覗くと、窓を開けて縁側に座り、庭を眺めていた。
ちょうど良いので、池で息継ぎのやり方を教わったという話を聞いてみる。


夏休みということもあって、僕と妹は二人だけで祖父母の家に泊まりがけで遊びに来ていた。
妹が溺れかけたという騒動が起きた日、僕は友人と釣りに出掛けていた。
ちょうど、今日のような良く晴れた真夏日だった。
五歳だった妹は、最初は一人で、おままごとをして遊んでいた。
しばらくして、庭の木戸の近くに赤い可愛らしいワンピースを着たおかっぱ髪の女の子が立っているのに気がついた。
たぶん近所の子だと思ったのだそうだ。
今までにも幾度か庭を覗きに着た子供と一緒に遊んだことがあったからだ。子供は、別の土地から来た子供の存在に、とても敏感なものなのだ。
そして、さっきまで知らなかった相手でも、少し気が合えばすぐに打ち解けてしまったりもする。
一人で退屈していたので、一緒に遊ぶかと尋ねると、いいよと答える。庭の片隅に生えていた露草を集めて、先刻までおままごとに使っていた茶碗で花びらをつぶし、池の水を混ぜて色水を作った。
その頃、池には特に何がいるわけでもなかったのだが、とても綺麗な水をたたえていた。僕は、釣った魚をそこへ放そうと思って釣りに行ったのだった。


茶碗の中には、綺麗な青い色水ができた。
女の子が、赤いワンピースの裾を染めたら綺麗かな、と言うので、色水にその裾を浸してあげた。
すると、裾の一部が、にじんだような紫色に染まった。とても綺麗な色になったのだと妹は言った。
女の子はとても喜んで、お礼に絶対に溺れないように息継ぎのやり方を教えてあげると言われた。妹は、その頃通っていた幼稚園の、プールの時間に泳げないばかりか、顔を水につけることもできないのを気にしていたそうだ。
最初は躊躇ったものの、女の子に、絶対に大丈夫だと言われると不思議とできるような気がして、言われるままに池に顔をつけて幾度か練習した。
はじめこそ、目を開けることもできなかったのだが、幾度か顔をつけたり上げたりしているうちに次第に慣れ、随分長く水の中を観察できるようになった。
水の中は、とても澄んでいて、それほど深くはないはずなのに、ずいぶん深く見えた。そして、底の方に、何か綺麗な花が咲いているのが見える。


うん、上手になったもの。それなら溺れることもない。


水の中に顔をつけたまま、女の子がそう言うのが聞こえた。
妹は嬉しくなって、随分長くそうしていた。
底で咲いている花は一体なんだろう。そう思ってしばらくの間目を凝らしていたら、祖母の叫び声がした。
あんまり大きな声に驚いて、水を飲んでむせかえったところで、祖父に抱え上げられていたのだった。
咳き込みながらも周囲を見回すと、さっきまですぐ傍らにいた女の子の姿はどこにもなく、きっとびっくりして逃げてしまったのだろうと思ったそうだ。
祖父母に溺れていると勘違いされて、結果的に大騒ぎになってしまったので、子供心に何も憶えていないことにしようと決めた。
その後、妹は幼稚園でも随分上手に泳げるようになり、先生にも褒められた。女の子に息継ぎを教えてもらったお陰だ。今度会ったらお礼を言おうと思ったが、それきり、女の子には会っていないのだという。
妹は、今でもかなり泳ぐのが巧い。
溺れかけたわりに水を怖がらないと思っていたら、そんな経緯があったのかと納得した。


麦茶を飲みながら、池は残念だったな。綺麗な水だったのに。と、妹が呟いた。
数日後、祖父母と両親の、危ないからという意見の満場一致で、池は埋められてしまったのだ。
結局あの日、魚は一匹も釣れなかった。


なかなか戻って来ないので、リンが痺れを切らして座敷に駆け込んできた。妹のことも、今までの客同様に気に入ったようで、しきりと遊んで欲しそうにしている。
妹も犬は好きなので、喜んで相手をしていた。
昼飯に、先日ヨネヤ夫妻の持ってきてくれた素麺の残りを茹でて二人で食べる。
それから、妹は眠くなったと言って座敷で小一時間昼寝をし、起きるなり、甘味が食べたいと言い出すので、少し歩いたところにある甘味屋に出掛ける。


夕方、リンの散歩がてら駅まで送る。
また来るねと言って、帰って行った。